

041―シナリオ
――絶望の果て。
その部屋は異様だった。
家具やインテリアが乱雑に放置され、壁面や床面には所々切り傷がある。
そしてこの部屋を異質たらしめる暗紅。
水気の一切が消えた凝血が壁を、床を、寝具を狂気に染め上げる。
言葉を失って、なすすべもなく佇む僕はどこかその陰惨なその光景に惹かれていたのかもしれない。
「にーちゃん、これ」
マドハンは言葉を発すると共に、床に落ちていた鍵を指さす。
今までの部屋は鍵を隠していたが、この部屋は拾ってくださいと言わんばかりの配置だ。
この光景が僕らに見せたかったものなのだろう。
ただこのままこの部屋を立ち去ってしまうのは惜しい。
この部屋で何があったのかを検証するべきだ。
足元にある擦り傷を観察する。
何かが突き刺さったという感じの傷ではなく、重みと刃がある物を引きずったような傷だ。
擦り傷が途切れた先にあるのは、深い傷。
床の木材を抉り取るような重い一撃。
一方的な虐殺があったような感じではなく、これは一対一の争いの形跡だろう。
「マドハン、そこに立っていて」
「おう」
シミュレーションのために、一度部屋を出る。
足元を見るとここにも擦り傷があった。
重みと刃。
薪割りで使われるような斧と考えるのが自然だ。
一般的な村で使われるような伐採斧。
サイズ大の標準的な柄の長さ90cmの斧を想定すると、平均身長並みの男性ではこのような引きずり痕は残らない。
これ以上大きな斧を使ったとも考えにくい。
柄を持つ手まで考慮して、手から地面の長さは約80cm。
頭の中で計算する。
この引きずり痕を残すためには、身長150cmから160cmくらいが妥当な数値だ。
僕は片手に斧を想像し、引きずりながら扉を開ける。
「マドハン、僕が君を殺すために斧を持ってやって来たとして、どう立ち回る?」
マドハンが立っているのは、先ほどの床に刻まれた深い傷の上。殺人鬼である僕が入って来て、驚いたこの部屋にいた人物が椅子かベッドから立ち上がって、移動したのがその位置だ。
僕は引きずっていた想像上の斧を目の前にいるマドハンに向かって、振り下ろす。
「ここは避けていいんだよね?」
床に刻まれた傷は、そのために生まれた傷だ。
僕は振り下ろした斧が床に突き刺さって動けない動作を取る。
「直感なら、その隙に部屋から出ようとするかな」
マドハンはそう言って、僕が斧を抜き取ろうとする隙に、扉の前まで移動する。この部屋に入るときに扉は閉めておいた。
「扉に深い傷があるよ」
扉の内側、表面に同じく斧で刻まれたような深い傷が残っている。ここから走ったとしても間に合いそうにはない。
となると投げるしかないか。
僕はマドハンに目配せして、斧を投げるモーションに切り替える。
「僕の投げた斧に怯んで、尻もちをついて」
マドハンは尻もちをついて、斧を回収しに来た僕から少しずつ後退りで遠ざかっていく。
マドハンの許にはスタンドライトや割れたガラスの彫像など、壁に接して置かれている長テーブルの上に置かれていたであろう装飾類が乱雑に転がっている。
「立ち上がって長テーブルの上のインテリアを僕に投げる。そうしたら中央に転がっている脚の低い楕円形のテーブルを盾に、僕を牽制して」
「や、やめてくれ。金ならいくらでもある。今ならお前の望むものなら何だって買ってやる。こんな感じ?」
文言はとにかく今のところ忠実に再現できているだろう。
「僕はその言葉を無視して、顔を覗かせているその人物に向かって斧を振りかぶる」
「ひぃ」
斧はテーブルの側面に突き刺さる。
「そのまま後退りながら、腰を落として壁にもたれ掛かる」
「やめてくれぇ」
マドハンは迫真の演技。犠牲者であろう人物になりきる。
「僕は腰を落としているその人物の顔に向かって、もう一度斧を振りかぶる」
マドハンは顔の横にある傷を確認して、首を横に動かし、斧を避ける。
斧が避けられるのはこれで最後だろう。
「背を向けて、僕から逃げようとする」
僕は斧を抜き取るモーションを止め、逃げたその人物の背中を切り裂いてやる。
「ひぎゃぁぁぁっぁぁぁ」
「もういいよ、マドハン。ありがとう」
恐らくこの後、背中を切り裂かれた人物はそのままベッドに倒れ込む。
「なるほどな。このベッドに血が不自然についてるのは、背中から流れる血のせいだったのか」
マドハンが頭の中のわだかまりが解け、納得したように頷く。
ベッドの上の血が何かで分断されている理由を考えれば、自然とこの終着点に行き着く。
壁と床にまだ大量の血が付いていることから、殺人鬼はその人物が死んだ後もずっと滅多切りにしていた。
これが僕の考えるシナリオだ。
「推測だけど、犠牲者はバート。殺人鬼はバートのかなり近くにいた女性。壁と床の切り傷が飛び飛びになっている理由は、途中で会話を挟んでいるからだと思う。そしてこの女性はバートに大きな恨みを持っていた。それくらいだね」
「女性っていうのは、前の前の部屋の人?」
バートの夫人のことだろう。
「わからない。これが起こった背景がそもそも曖昧としているからね」
「女の人……女、女……じいちゃんの片思い相手のメイドとか? うん、違うよね。誰だろう?」
無事に鍵も手に入れた。
僕らは部屋の外に出て、歓談を挟みながら、最後の部屋にやって来た。
このストーリーのエンディング。
僕はこの部屋に有無を言わせないほどの期待を寄せていた。
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空虚。空疎。虚無。空っぽ。
僕らを待ち構えていたその部屋はどの部屋よりもある意味、奇怪だった。
テーブルとその上に置いてある日記。
部屋に置かれている物はそれだけ。
この部屋に込められた意味。
この村の過去。この日記に僕らの求めている真実がある。
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