

036―オニゴッコ
いる。
僕の目の前にいる。
粘り付くような声が、僕を見つけた愉悦からか裏返っている。
吐息が僕の頬を撫で、肌にまとわりつく。
「やぁ、シャディ。迎えに来たよ」
奴は僕が起きていることには気付いていない。
チャンスが来るまで、じっと潜めろ。
「最初はただの小心者だと思っていたんだけどね。まさかここまで化けるとは。おかげであの役立たずは死んだよ。彼女は何とかしてこの地球に馴染もうとしていたけど、まぁ無理だよね」
奴の声はどこか余裕があって、これから人間を殺す者の発言とは到底思えない。
奴は拳一つ分の距離だった僕から顔を離し、代わりに、なぞるように、そっと優しく手を首にかける。
「じゃあ――殺すね」
奴は今どんな顔をしているのだろう。
きっと笑っている。
狂気に満ちた形相が容易に想像できてしまう。
僕の首にかかる手が、絞める手が徐々に強くなっていく。
奴の意識が僕を殺すことに夢中になった今が、反撃のチャンス。僕は手に持っていたカメラを少しずつ、奴の眼前まで近づける。電源はあらかじめ入れておいた。
――今だ。
「!?」
閃光。
僕の瞼越しでも伝わるフラッシュが目を焼く感覚。
この暗闇の中、まず普通の人間には耐えることができない白刃だ。
「ナニ……コレ」
奴は僕の首を抑えていた手を離し、そのフラッシュに焼かれた目に持っていく。
僕はベンチを立ち上がり、前へ前へと進もうとするが。
不安に、恐怖。悪感情が僕の脚に纏わりついて、思うように脚が上がらない。
――だけど捕まったら終わる。
僕は必死に自分を鼓舞し、何とか少しずつだが、前へ進む。
雑多ではあるが、この広場を囲う四軒の外に、さらに環状に家屋が建ち並んでいる。このまま一番近い西の家々へと向かい、障害物を駆使して、掻い潜るのが良いだろう。
僕は重い脚を止めることなく、ひたすら西へ向かう。
「……ックソ」
「……ハァ、ハァ、ハァ」
西に何件か建ち並ぶ家屋の内の一軒。二階の寝室らしき部屋の壁にもたれかかって、息を落ち着かせる。
あの閃光だ。簡単には追って来れまい。
僕はカメラを取り出し、念のため撮った写真を確認してみる。
「まぁ、そうだよね」
シャッターが開いている間に、急激にカメラを動かしてしまったために、手振れが酷いことになっていた。写真の内容は確認できず。
もとより期待もしていなかったが。
ここからでは奴の動向を確認できない。まだ広場で目が眩んでいる状態を耐えているのか、それとも既に僕の居場所を特定し、着々と迫っているのか。
この暗闇では音が頼りだ。
僕はもう一度、聴覚に全神経を注ぎ、聞き耳を立てようとしたが、
――無駄だった。
一階から何か物音が聞こえた。僕の動悸で足音が打ち消されていたのか、奴は既にこの家屋の一階部分にいた。
時期に二階に上がってくる。僕は窓から顔を出し、地面までの高さを確認する。
目視で三メートルほど。飛び降りられることには、飛び降りられる。だが僕の心がこの高さに完全に怖気ついてしまっている。
不味い、どうする?
いや、そんな悠長なこと考えている暇などない。奴は刻一刻と僕の許まで近づいている。ならば、飛び降りるしかない。
僕は覚悟を決めて、窓枠に足を乗せる。決死のジャンプだ。
窓枠からそのまま地面に向かって、落下、そして着地。
頭では大丈夫だとわかっていても、心が飛び降りるのを若干躊躇してしまったためか、雑な着地をしてしまい、足が痺れて痛い。
当然、軍隊経験なんてない僕は五点着地なんてできるわけがない。僕は痺れた足を動かし、この家屋から離れようとするが、後ろからおぞましいほどの寒気がした。
「やぁ」
後ろには奴がいる。そして今更になって、先ほどの物音がブラフだと気付いた。
わざと一階で物音を立てて、僕が二階の窓から飛び降りるよう誘導した。そして着地直後のブランクを狙って、今現在、僕がされているように待ち構える。
完全に嵌められた。
「あなた、あの石を使いましたね? どこまでも小賢しい。七十年前から何も変わっていない」
背後から聞こえる声。
僕はポケットの中から、簡易発煙弾を取り出し、奴に見えないよう前を向いたまま、着火の準備を進める。
まだ諦めるのは早い。
この付近は建物も草木で茂っている場所も多い。足が痺れてはいるが、決して走れないということもない。目さえ眩ませてしまえば、今この窮地は防げるはずだ。
「あなたには関係のないことですがね」
一歩一歩距離を近づけているのが、その声と足音から伝わる。僕も少しずつ進んではいるが、五体満足の奴からこのまま逃げ切るのは無理だ。先ほどから着火のために用意しておいたライターが思うように付かない。
「逃げても無駄。このまま投降してくれれば、優しく殺してあげましょう」
足の痺れは少しずつ回復してきている。
「彼女、マイアは宇宙人なのか?」
どうしてこんなことを口走ってしまったのかわからない。
時間が稼げればいいと思ったのか、それともただ彼女の最期の笑顔と涙の理由を知りたかったのか。僕には到底あれが狂気だとは思えないのだ。
「ええ、そうですよ。だけど私から見れば、彼女は巻き込まれてしまっただけのただの被害者です」
「どういう意味だ?」
僕は奴に尋ねる。
「あの武器に私達に対する殺傷能力がないのはわかってますけどねぇ。それでも私達は抵抗できない。どうしてこのゲームが開かれたのか。そして黒い外套の正体が誰なのか。もう一度考えるべきですよ。まぁ、人殺しに飢えていたのは紛れもない事実ですが」
痺れが回復して来たとは言え、そろそろ仕掛けないと不味い。
着火が終わり、導火線から本体部分へ少しずつ燃え移るのを待つ。
「考える時間など与えはしませんけどね」
奴がペースを上げ、僕も全力疾走する。
僕は前方向に発煙弾を投げる。
僕がその投げた発煙弾を走り抜けたその瞬間、大量の煙が上がる。
「クソ」
タイミングも、発煙弾の出来も完璧だ。奴が口と鼻を抑えながら立ち止まったのを煙越しに確認した後、僕はすぐさま、右へ曲がり先ほどからずっと前方に見えていた家屋の裏へ回り込む。
そのまま元居た家屋方向まで引き返し、更に奥まで全力で走る。
再び村中央の広場までやって来た僕は、マドハンが寝泊まりを繰り返していた家屋まで走り、その家屋裏で身を潜め、頭を回す。
ここで一つ結論を出して置かなければならない。判断材料が少なく、ほぼ決め打ちだと言っても良い。
一度見せた発煙弾だ。もうあの手の不意打ちは効果ない。だからここで出した結論を元に今できることを考えなければならない。
奴の能力について。
まず奴は僕の居場所をある程度特定できる。ベンチにいる僕を屋敷の中で迷うことなく発見できたのも、先ほどの家屋で二階にいる僕を嵌めた一手も、人間では不可能な領域。
――嗅覚。
発煙弾から煙が上がった時、奴は立ち止まって鼻と口を塞いだ。煙越しではあるが、僕には奴がそれを露骨に嫌がっているように見えた。
普通の人間ならあれ程の煙なら気にもせず、追えるだろう。
――敏感過ぎるが故に。
奴は僕から発するにおいを頼りに、屋敷からベンチにいる僕を、家屋の二階に隠れていた僕を簡単に探し出すことができた。
しかし突然放たれた煙のにおいに、自慢の嗅覚は呑み込まれた。
こう考えれば、少なくとも僕の推理と奴の行動は合致する。
残りの発煙弾は二つ。
奴も時期に、僕の位置を把握して、追ってくるに違いない。
僕は立ち上がって、羽織っていたパーカーを脱ぎ、唯一村の中で二階の窓が開けられているこの家屋にそのパーカーを投げ込む。
マドハンはこの家屋でも、僕の部屋でもなく、別の場所で待機してもらっている。
作戦の筋書きを確認する。
奴の嗅覚を欺くには、まず僕自体のにおいを消さなければならない。奴のあそこまでの反応を察するに、この煙を使えば、においの上書きができるはずだ。
しかし僕のにおいが突然消えれば、奴も当然煙で上書きされてしまったことに気付くだろう。
僕は一つ目の発煙弾を着火し、足元に投げる。
煙が次第に辺りを包み込んでいき、そのにおいも充満していく。
そしてもう一つの発煙弾にも着火し、できるだけ遠くの茂みに投げる。
僕はこのままこの家屋裏で待機する。
残り時間は八分、後は奴次第だ。
僕のにおいが消え、新たなにおいの発生源が二つできた。
先ほどの、奴が強烈な煙のにおいに怯んでいるであろう場所から、僕が今いる場所と発煙弾を投げ込んだ茂みはほぼ同じ距離だ。先ほどの位置周辺にまだ奴がいるなら、においの強さや方向から僕の位置を特定するのは難しいはずだ。
奴はにおいの移動もわかるはずだから、僕の位置をこの二つに絞れる。
そして二階に投げ込んだ僕のにおいを発するパーカーをどう解釈するかが重要だ。奴は単純に僕が二階に逃げ込んだと考えてこの家屋を探すのか、それともそのにおいがブラフだと気付き、茂みの周辺を探しに行くのか。
残り時間から取れる選択は一つ。
奴が狡猾で、まず直感で物事を進める性格の持ち主でないことは散々思い知らされた。
だから奴は間違いなく考える。
二つの煙幕の意味を。
足音が聞こえる。その音は少しずつこちらに近づいている。
奴は今、広場にいるとみて間違いない。
煙は順調に上がっている。しかしその効果はもう切れてしまうだろう。
茂みの方へ向かうのか、それともこの家屋へ向かうのか。
奴の足音は……遠ざかる。
危なかった。どうやら僕は賭けに勝ったようだ。
奴がその付近を確認し終わるだろう三分間、音を立てずじっと待つ。僕は足元に落ちている煙が発生しなくなった発煙弾を攪乱のため、遠くへ投げる。
それと同時に僕も再度、全力ダッシュをする。
目指すは屋敷。
この距離ならもう逃げ切れるはずだ。荒い息に、もたついた脚。
部屋に着いた僕はベッドの上へ倒れ込むように重い身体を乗せ、静かに勝利を確信する。
前回
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